さてこの頃になると、益々活発化する浪士活動に対応する目的で、非常人足体制と共に更に農兵取立てが進み、改革組合村の武装化が促進された。そしてこうした体制を率いる幕府の現場指揮官としての関東取締出役の役目は重要度を増し、自ら犯罪取締りの行動に従事するだけではなく、上記の様に改革組合村の非常人足や農兵部隊らを指揮・統制して具体的な治安維持活動に当たったのである。
但しこの様な動きに関しては、単に江戸幕府の側の一方的な体制維持と地域支配の強化の為の活動と見做すのではなく、当時の騒然とした社会情勢を鑑みて、地域社会の側の自発的な要望に基づいて起きた面もあり、これらの動向は地域社会と一体となった治安維持・犯罪対策の活動と考えた方が適切とも思われる。
最後に、関東在方掛の廃止と同時期の慶応4年(1868年)2月末頃には、出役の大部分の者が活動を停止していることから、厳密な期日とその根拠などは不明確乍ら、関東取締出役も同年(慶応4年)には廃止されたと考える説が有力である。
4. 課題・問題点
関東取締出役は、幕臣としての身分は比較的下層であるにも関わらず、現実にはかなりの権勢を誇っていた様で、本来は上級武士にしか許されない駕籠を乗り廻し大勢の従者や道案内を引き連れて、まるで大名行列の様な豪勢な巡視を行い廻村するなど、その姿は一般の庶民からは大いに顰蹙を買ったとされる。
実際の弊害も大きかった様で、十手(銀磨きに唐草彫り、紫か浅葱の紐に同色の房付き)という権威のシンボルをちらつかせては、相当に強引な犯罪捜査を行ったとされ、俗に「泣く子も黙る」と言われるほどに恐れられた存在であった。また不確かな噂や通報などを証拠として容疑者を召し捕らえることも多く、口書(事情調書)の作成に手を抜いたり(稀に偽造したり)、そして出役が容疑者を取り調べる際には、当地の宿方に長く滞在することもあり、囚人番の諸費用がその町村の重い負担となったともされる。
出役に関わる問題の二つ目は、道案内(目明し)や番太との馴れ合いにあったとされている。無宿や悪党を捕らえる場合には彼らが必要不可欠ではあったが、一部の道案内や多くの番太は出役の威光を笠に着ては、行く先々の村々で横暴な振舞いが目立った。彼らは自身の敵対者を陥れることなどもあり、更に長脇差を帯した博徒から、お目溢しの為の“ふせぎ”と称する金銭を巻き上げたりもしている。
この様な出役と一部の道案内や番太の中の不届き者並びに博徒などとの癒着関係、更には管轄下の町村役人との不適切な交流などが、是正しなければならない大問題となっていった。
尚、“文政改革”における組合村結成の意図は、村々に出役の任務へ全面的に協力させることであり、前述の通りに犯人逮捕とその護送に必要な経費を、すべて組合村の負担としたことにあった。例えば、出役らの滞在費用、取調中の仮設の牢囲いに江戸送り用の囚人籠の製作費、そして移送の際の諸費用などは、当該の町村が協同して請け負ったのである。
こうして改革組合村が編制された後、関東地方の治安は一応の回復に向かうが、これらの政策実行の為に過度の負担を強いられた多数の村々や関わる諸藩・寺社などの間では、(あからさまには出来ないが)結構な反発が存在していたのであった。
※特に上野国(上州)では、関東取締役出役が私腹を肥やし収奪にあけくれたとも。これが反権力の博徒たちが多く生み出される上州の土壌を産んだ所以か。また上野国に加えて下野国(野州)や武蔵国(武州)では“日光例幣使”と呼ばれる公家たちが、年中行事としての日光参内に名を借りて、盛んに沿道の町村から賄賂(入魂金)を取り立てたりと、強請を欲しい侭にしていたと云う。
※“日光例幣使”とは、江戸時代、朝廷より日光東照宮の例大祭に差遣された奉幣使のこと。
※出役により圧力を受けて自刃した農業指導者・大原幽学の門人や学友たちは、後に飯岡助五郎を「八州取締出役手先頭」の権威を振りかざして関東一円で悪事を働く「国定忠治よりも悪事勝れ候も、劣る者にはこれなき」一番の悪徒であると評したと伝わり、「幽学を自殺に追いやったのは助五郎」という世評はここから起きたとされる。また幽学が自殺する原因の一つとなった“改心楼乱入事件”は、助五郎の兄弟分である松岸半次が原因ともされる。
一般的には、“文政改革”やその重要な産物である改革組合村の組織化などについては、ほとんどと云って良いほどに知られていない。逆に天保から嘉永期以降の博徒や悪党集団との壮絶な戦い等に関しては、多くの時代劇や歴史小説の中にそのイメージがうまく活かされている様で、出役(八州廻り)とその配下が悪質な博徒や無宿人たちとひと合戦を繰り広げる場面は広く人口に膾炙したものとなっている。
だが幕末期における関東取締出役の活動実態については“文政改革”などと同様に意外と知られておらず、それは無宿や犯罪者取締りの為の広域警察などというよりは、風雲急を告げる国内外の情勢の下、開港地域や台場(沿岸砲台)などの警備・保安活動や、幕府転覆を計る諸勢力に対抗する為、天領住民を民兵組織化(や)した幕兵集団の指揮・統制役と化しているのだった。
こうして彼らは、不甲斐なき旗本八万騎に代わった紛れもない幕府の最前線実戦部隊の指揮官となっていくのである。つまり関東取締出役に関しては、広域刑事警察と組合村・道案内・番太その他 → 公安・内諜警察と竹槍装備の非常人足など→ 反幕勢力との実戦と銃装備の農兵などの実戦部隊へと、その目的と率いる配下・組織が時代を経て変化していったとみるべきである。特に前半期にみられた農民への人格論を諭し無宿者の帰農を勧めた教諭活動などは、出役存在の意義が変わった後半期には無縁の存在の様になったと感じられる‥‥。
-終-
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【付録/参考】天保期~慶応期 関東取締出役の活動記録
・天保3年3月15日(1832年4月15日)、関東取締出役が酒造許可を得た武州加須宿の酒造蔵を検分する。
・天保5年9月24日(1834年10月26日)、関東取締出役は廻状で芝居狂言を催す者の名前を出すよう指示を出す。尚、当時は農村地域では芝居や狂言は禁止されていた。またこの時の出役名は山本大膳、太田平助(太田は手代とも)はである。
・天保8年12月4日(1837年12月30日)、関東取締出役が改革組合村に飢饉窮民救助者の書上げを命ずる。出役署名は、須藤保次郎・小池三郎・内藤賢一郎・太田平助・吉田左五郎。
・天保11年11月5日(1840年11月28日)、関東取締出役の抜荷調査があり、抜荷商人12名が逮捕された。
・天保12年6月10日(1841年7月27日)、関東取締出役の手代2名が新潟へ出張し、小嶋屋五郞助宅を白州とする。
・天保12年6月15日(1841年8月1日)、関東取締出役手代が新潟抜荷調査を開始する。
・天保13年7月3日(1842年8月8日)、新潟抜荷の廻船問屋逮捕者12名の連行が行われた。
・天保14年6月~7月(1843年7月~8月)、関東取締出役が武州入間郡の下駄の鼻緒売買紛争に出動した。
・天保15年1月23日(1844年3月11日)、関東取締出役が品川宿の飯盛女を検索する。
・嘉永2年3月7日(1849年3月30日)、関東取締出役が勢力富五郎の捕縛協力を香取郡周辺村に命ずる。
・嘉永2年3月8日(1849年3月31日)、関東取締出役が勢力富五郎を襲うが逃げられる。
・嘉永5年2月~3月(1852年2月~3月)、関東取締出役が大原幽学の門人を取り調べる。
・嘉永5年6月~7月(1852年7月~8月)、関東取締出役が大原幽学を取り調べる。
・嘉永7年1月18日(1854年2月15日)における関東取締出役9名の陣容は、中山誠二郎・大熊左介・渡辺園十郞・岡畝一郎・吉岡静助・安原寿作・太田源助・山口顕之進・吉田僖平次であった。
・嘉永7年4月4日(1854年4月30日)、関東取締出役は改革組合村選出の道案内を村役人が担当することを認めない事とした。
・安政5年9月13日(1858年10月19日)、関東取締出役が水戸藩の動静を幕府上層部へ内密に報告している。
・安政6年9月1日(1859年9月26日)、関東取締出役が徳川斉昭の千住宿到着の状況を報告している記録がある。この時の出役署名は石毛市之丞と佐々木銀四郎。
・万延2年2月2日(1861年3月12日)、関東取締出役が幕府より浮浪の徒鎮圧を命ぜられる。
・元治元年5月27日(1864年6月30日)、関東取締出役が筑波山不法集合者取り押さえの廻状を出した。
・元治元年6月21日(1864年7月24日)、関東取締出役が悪党立回り対策で多摩付近で人足伝馬を調達した記録あり。ちなみにこの時、80人調達で弁当料一人前50文が支給されている。
・元治元年8月25日(1864年9月25日)、関東取締出役が筑波山賊徒に対し竹槍等で打殺し可の廻状を出す。
・慶応元年4月16日(1865年5月10日)、関東取締出役の渡辺新二郎が土方歳三の京都動静報告を御用状で知ったとの記録がある。ちなみに、多摩地区における“農兵取立て”の動きと、“新選組”成立の関連性などについては興味のあるところである。また出役と当時の幕府付属の在府・在京治安維持諸組織(〇○組・□□隊etc.)との連携・関係性も研究課題となっている。
・慶応2年12月15日(1867年1月20日)、関東取締出役の増山健次郎らが八王子壺伊勢屋に宿泊していた浪士を逮捕した。
・慶応4年3年14日(1868年4月6日)、この時点で関東取締出役は、上野国岩鼻から撤収した模様である。
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