明治政府の平等政策第1号、『貢進生』とは何か? 〈1647JKI37〉

皆さんは、『貢進生(こうしんせい)』という聞き慣れない言葉をご存知ですか。教育学に興味のある私もつい先日に知人から聞くまでは、この言葉の意味を詳しくは知りませんでした。

そこで、(専門家ではありませんので)ごく簡単な内容ですが、私なりに少しばかり調べてみましたので、関心のある方は是非一読、参考としてください‥‥。

 

維新当初は、薩摩や長州、土佐や肥前といった「官軍」側の出身者が、学問の頂点であった大学南校(後の東京大学)に優先して入れる体制となっていました。これは『五箇条の御誓文』第三項での「全ての人々が志を持ち、それを叶えることが出来る社会を作る」との宣言に反しており、薩長土肥以外の関係者、特に旧幕府側出身者から強い批判を受けていました。

しかし大学南校在校生を中心に、広く学問への門戸を開くべきとの声が上がり、明治3年(1870年7月27日の太政官布告により、各藩から石高に応じ1名 ~ 3名(大藩3名、中藩2名、1万石程度の小藩1名)の学生を大学南校に送り出す(貢進する)ことが命じられのです。

この彼らを『貢進生』と云い、各藩からの推薦を受けて大学南校に入学した学生の総称なのでした‥‥。

貢進とは、貢物をさし出すこと。進献、貢献の意。ここでは、推薦するという意味になります。

※大学南校とは、明治3年7月に旧開成所跡に設置された明治政府洋学を教授する目的で開設した学校組織であり、開成学校を経てやがて東京大学に発展・統合された教育機関のこと。やがて変遷・改組を経て、明治10年1877年)4月12日に至り、他の教育機関とも合同して文部省所管の官立東京大学となります。尚、ちなみに東校は医学校で、最終的には東京大学医学部に統合されていきます。

※貢進生の総数は318名で、年齢は16歳から20歳とされていたので、この時点での生年は嘉永4年1851年)から安政2年1855年)の者が中心でしたが、一部に例外者も存在しました。明治10年1877年東京大学成立以降、貢進生はその第一期卒業生の主体を構成していました。

この時、貢進生に応じた者はその授業が全て英語で行われることから、英語をある程度は理解出来る学生であることが条件とされたとも伝わります。

また貢進生たちは、自らが学ぶべき目的の洋学に秀でた国を選択し、英語・フランス語・ドイツ語に分かれて各々の言語の習得を開始しますが、明治4年1871年1月の段階では英語専攻が219名、フランス語は74名、ドイツ語は17名でした。

そして彼らは、南校での語学授業を終えると本格的に目的の学問を修めるべく、海外への留学を望んだのです。こうして政府や出身藩などから支援を受けて欧米の列強諸国へ飛び立った彼らは、留学を終えて帰国すると、その多くは官僚となりますが、一部は高級軍人に転じたりしました。

※貢進生の内で最も優秀な学生は東京大学への編入学・卒業を待たずに、明治8年1875年)並びに明治9年1876年)において、文部省から海外留学生として諸外国へと派遣されました。また大学卒業以前に政府の各機関へと出仕した者もいました。

こうして明治政府は全国から優秀な青年を集めて高等教育を実施、欧米の最新知識を身に付けさせて、近代国家建設の為の数多くの官僚や軍人を生み出す教育システムを確立していきました。

大日本帝国憲法の第19条には、「日本臣民ハ法律命令ノ定ムル所ノ資格ニ応シ均ク文武官ニ任セラレ及其ノ他ノ公務ニ就クコトヲ得」(原文)、すなわち「大日本帝国の臣民は、誰でも法律が定めた資格制度に合格しそれを通過すれば、軍人や官僚、その他の公務員となることが出来る」(意訳)と定められており、この条文を拡大解釈すればそれまでの身分制度が再編されたとも捉えることが可能で、臣民(国民)の全てが平等に軍務や公務に就く権利を有することになったとされます。

そこで現在の憲法学者の一部には、このことを大日本帝国憲法における唯一の平等条項だとする意見もある位なのです。

この様な、生まれついた身分や家柄ではなく、能力に基づいた実力主義で、国家を動かす重要な官僚や軍人などのポストに就けるとするこの人材登用の考え方は、明治の日本がアジア諸国で唯一近代化を果たした国となった成功の要因の一つだったと考えられています。

更に彼ら貢進生は、明治初期において近代西洋諸国の学問を組織的に学んだ第一世代であり、開設間もない帝国大学における教授陣の中心ともなり、各大学で教鞭を執り後進の育成に当たりました。そしてその後の明治中期以降、我国アカデミズムにおける主要な学界を牽引した中核学者層として活躍した世代でもありました。

 

しかし、各藩からの推薦者全てが条件を満たした優秀な者とは限らず、貢進生の半数近くが西洋の進んだ学問を身に付けることが能わずに、途中で大学を退学しエリートコースから脱落していったのです。

そして明治4年(1871年)10月、早くも貢進生制度は廃止され、我国大学の学制は(新たに改めて学生希望者を募集し)試験の結果で誰もが入学が可能な、近代的な入試制度に変更されたとの事です‥‥。

-終-

 

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