『村上海賊の娘』の父親・・・村上武吉 〈25JKI00〉

村上家紋1images本稿は、村上水軍の雄、能島村上家中興の祖とされる村上大和守武吉について解説する記事。この人物こそが、和田竜さんの歴史小説『村上海賊の娘』の主人公・村上景の父親に当たる武将だ‥‥。

今年(2014年)の「本屋大賞」は、戦国時代、瀬戸内海で大きな勢力を誇った海賊集団である村上水軍を題材とした、和田竜さんの歴史小説『村上海賊の娘が受賞した。

そこで、主人公の父親である能島村上家中興の祖ともいえる、村上武吉について調べてみた。

 

和田竜さん(歴史小説『のぼうの城』でブレイク)の『村上海賊の娘』が「本屋大賞」を受賞したのをきっかけに、小説の主人公、村上景(むらかみ きょう)の父親で、村上水軍の諸将の中でも勇将で鳴らした村上武吉(むらかみ たけよし)の生涯を、皆さんにご紹介していこう。

生まれ・家督相続まで

戦国時代に入ると、三島村上氏(瀬戸内海最大の海賊衆で同族意識の強い因島村上氏、能島村上氏、来島村上氏の三家)による芸予諸島の支配が確立するが、その中でも能島村上氏の村上武吉(むらかみ たけよし)の台頭が目立つようになっていく。

武吉は天文元年(1532年)に生まれ慶長9年(1604年)に亡くなったと伝えられている。 父は村上義忠で、子に元吉景親がいる。また掃部頭、後に大和守を名乗った。

庶子であった武吉は一時家督争いに敗れ、九州肥後の国の菊池武俊(元服の際に武吉と名乗ったのは菊池武俊の偏諱を受けたことによる)のもとに身を寄せていたが、後見の叔父、村上隆重(父義忠の弟)の助力を受けて家督を継ぐことができた。

この家督争いは、当時の有力大名、大内氏と大友氏の北九州地方の覇権を巡る代理戦争として、大内派の武吉・隆重と大友派の能島村上氏嫡流の義益と義益を支援する来島村上氏の村上通康が争った結果だともいわれている。しかし武吉は、家督争いに敗れて来島に逃げ落ちた義益が病死すると、村上通康と和を結びその娘を娶り、両村上氏の協力関係の回復に努力した。

武吉はその後、伊予国の守護大名河野氏に臣従(古くは能島村上氏は応永12年/1405年には河野通之から防予諸島の忽那島に知行地を与えられている)する姿勢をとりながらも,その行動には独自性が強くみられた。

厳島合戦と毛利氏

やがて能島村上氏は大内氏との関係を深めるが、大内家の重臣であるの陶晴賢が主君の義隆を謀殺して主家の実権を握った後、毛利元就と陶晴賢が争った弘治元年(1555年)の厳島合戦では毛利方に組して勝利する。

ぎりぎりまで去就を明らかにしなかった能島と来島の村上氏であったが、小早川隆景の重臣であった乃美宗勝(宗勝の姉が武吉の祖母)の説得で毛利氏の味方として参戦を決めたのだ。武吉は来島の村上通康ともどもこの合戦には参加しなかったとの説もあるが、参戦説を裏付ける証拠(毛利元就や隆元の武吉宛ての感状など)も多くあり、筆者としては参戦は確実と考えている。

また通説では、来島の通康のもとに毛利から援軍を依頼する書状が到着し、その内容に「(1日でケリをつけるつもりなので)1日だけ船を貸してくれ=1日でいいから味方してほしい」とあり、この言葉で毛利の勝利を信じた、という話がある。

尚、(現実的な)村上武吉が陶晴賢と敵対した理由には、以前は大内義隆から厳島で海上交通の通行税を徴収する特権を得ていたが、陶晴賢がその特権を剥奪したので、この権利を回復することが目的であった、というものが有力である。ちなみに、天文20年(1551年)には、村上水軍を軽んじた陶・大友方の廻船30艘が宇賀島の海賊衆に守られて、因島付近の村上方の海関を強行突破したが、武吉の軍勢が焙烙火矢でたちまち殲滅したという。

厳島合戦で毛利氏の勝利に貢献した後は、能島村上氏は毛利氏とのつながりを強め、毛利氏の軍勢として大友宗麟と戦った。しかし、もちろん毛利氏の完全な臣下となった訳ではなく、永禄12年(1569年)には大友氏や備前の浦上氏と同盟し、元亀2年(1571年)には武吉が離反したと考えた毛利氏の小早川水軍(因島・来島村上水軍も参加)が能島を襲撃・包囲して武吉は危機に瀕する。しかし大友宗麟の仲介で来島の村上通総と和睦が成立し、危機を脱した。また翌年には毛利輝元と浦上宗景の間に和睦が成立し、武吉も再び毛利の陣営に復した。

厳島合戦以降はこのように、一時期、三好氏と交流し大友宗麟や浦上氏に味方した時期を除き、概ね毛利氏の傭兵として活動しているが、その独自性・中立性は高かったと考えられる。永禄3年(1560年)に毛利氏と尼子氏の抗争を調停する際に、時の将軍、足利義輝が伊予の河野通宣と武吉を証人として指名していることからして、その実力と中立性が認められていた証であろう。

対織田戦での活躍

その後は、毛利水軍の中心的役割を担っていく能島村上氏であったが、毛利氏が織田信長と戦うことになると、毛利水軍の一員として第一線で戦闘に従事した。

天正4年(1576年)の第一次木津川沖の合戦では、7月12日に淡路島の岩屋を発した三島村上水軍を含む(川ノ内警固衆や小早川水軍を基幹とする)毛利水軍700~800艘が泉州貝塚で雑賀水軍と合流、翌13日、木津川河口で織田の水軍(摂津・和泉の海賊衆)、200余艘(300艘との説あり)と遭遇、合戦となった。

結果は村上水軍の巧みな操船術と炮烙火矢の威力が功を奏して毛利方の圧勝に終わり、織田方の水軍を壊滅させて、同時に石山本願寺への物資補給を成功させた。ちなみに武吉自身はこの戦には参加せずに嫡男の元吉が出陣して主力として戦い大勝を収めている。

その2年後の天正6年(1578年)11月に発生した第二次木津川沖の合戦では、志摩水軍の首領、九鬼嘉隆が信長に命じられて建造した鉄甲船(鉄張船ともいう)が活躍し、毛利方は戦力的には大きな打撃を被った訳ではないが、石山本願寺への兵糧の運び込みに失敗して織田軍の戦略的勝利となった。この結果、兵糧不足に追い詰められた本願寺は、その後、1年足らずで信長に降伏することになる。

その後の武吉と能島水軍

第二次木津川沖の合戦で敗れた毛利水軍は東瀬戸内海の制海権を失った。本願寺の陥落後は、荒木村重の降伏、別所長治の滅亡、宇喜多直家の寝返り、と不利な状況が重なっていく。

それ以降、徐々に戦線を後退しつつあった毛利方の戦況全般を観察し、また戦力的にも織田水軍との対決が不利と悟った武吉は、織田方との接触(天正8年もしくは9年頃に、武吉は信長に鷹を贈っている)を始める。また同時期に織田方の羽柴秀吉からは、しきりに毛利方の水軍警固衆に調略が仕掛けられてきた。

天正9年4月から翌年4月にかけて、能島村上氏においてクーデターが起きた。武吉は強引に引退させられて、村上元吉が惣領となった。これは武吉の離反を警戒した毛利方と、能島村上家の親毛利派の画策に間違いないと考えられる。

その後、毛利方からの慰撫工作を受けた武吉は、天正10年5月頃には家督に復帰し再び毛利氏の傘下につき、織田方についた来島村上氏の通総を攻めた。通総自身は秀吉方へ逃亡すが、来島の村上氏とその兄の得意通幸の軍勢の抵抗は天正13年までつづくのである。この時期には三島村上氏の結束も大きく乱れ、長年の協力体制も崩壊したといってよい。

さて来島を占領した武吉であったが、毛利氏が秀吉と和睦した後、来島の返還を要求されてもこれを拒否し四国攻めにも加わらなかったため、再度、小早川隆景に能島を攻められて降伏した。そしてこれを明け渡し、隆景の所領である竹原(広島県竹原市)に移送され、その後は隆景の家臣として彼に付き従うことになる。

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村上景親 座像 宮窪資料館蔵

また、家督を継いだ嫡男の元吉とその弟の景親らは毛利家、吉川・小早川勢に従って文禄・慶長の役で朝鮮で戦った。

 

能島村上氏は我が国の海賊史上、武吉の代に最大の版図を築いたが、豊臣秀吉の天正16年(1588年)の惣無事令の一環である海賊禁止令を受けて、海賊としての活動は困難となり、その後は明確に毛利氏の臣下として、その家臣団に組み込まれていった。

関ヶ原の合戦前後には、村上水軍も西軍・毛利方として伊勢湾沿岸、紀州沿岸、阿波などを攻めたが、西軍の敗北により全国の制海権は徳川方の手に帰した。

尚、この時、村上元吉は、東軍の伊予の加藤嘉明を攻めたが、佃十成の三津浜夜襲によりあえなく討死してしまう。

そして、これを以て、独自の水軍としての能島村上氏の歴史は幕を閉じたのである。

やがて徳川の世となる頃には、能島村上氏は海賊稼業を完全に廃業して、子孫は長州藩の船手組頭として江戸の幕藩体制を生き延びていくことになる。

 

村上武吉は、晩年は周防大島(山口県大島郡)に隠棲し、関ヶ原の合戦の4年後に72歳で死去したという。ちなみに、周防大島には館跡と共に墓所があり、法号は大仙寺覚甫元正。

一般に海賊としての粗野なイメージが強いが、大山祗神社などにて連歌会を頻繁に催しており、武吉自身も多くの連歌を残している。そこには、武略だけではなく文化・教養にも理解があった様子が伺える。また、ルイス・フロイスは、武吉を「日本最大の海賊」と評している。

はるか後年、村上武吉が著わしたとされる水軍の兵法書『村上舟戦要法』は、司馬遼太郎さんの『坂の上の雲で有名な連合艦隊の参謀、秋山真之によって、日露戦争における対露艦隊向けの戦術(「丁字戦法」等)として日本海海戦の際などに参考にされたと言われている。

-終-

 

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