3.11東日本大震災に際して、自衛隊や米軍が救援活動に従事したことは記憶に新しいが、関東大震災の発災当時、帝国海軍の連合艦隊は遼東半島沖で演習中であったが、未曾有の大災害の一報に接し、旗艦「長門」をはじめとして総力をあげた救援活動を開始したのだった・・・。
大正12年(1923年)年9 月1 日午前11時58分、関東地方一帯に大規模な地震が発生した。関東大震災である。
震災の発生と同時に東京地区の電信・電話網はすべて潰滅したが、海軍では奇跡的に船橋送信所が活動を継続していた。同送信所の指揮官である大森大尉は、この未曾有の災害の状況を独断で1日午後3時に全海軍宛に送信した。
そして海軍はその全力を挙げてその救援に当たるために行動を開始し、1日当日の夜、海軍大臣は野間口横須賀鎮守府司令長官に対して、品川及び横浜に艦艇を派遣し警備の任務に就くよう命じた。
2日午前8時には霞ヶ浦海軍航空隊による空中偵察が行われた。陸上練習機2機及び水上偵察機1機により、東京、横浜、横須賀方面の被害状況を確認し、その結果を報告している。これは震災直後において、ほとんど情報が無い状態での被災の実態を知ることの出来る貴重な情報であった。
海軍関係者の直接視認の第一報としては、2日午前11時に横浜港に入港した駆逐艦「萩」の鈴木田幸造艦長が、防波堤が大規模に崩壊し、海面には大量の重油が流出し盛んに燃えていることを観察し、並びに、聴取した横浜港務部長の状況説明と偵察のために派遣した自艦の士官の調査を総合して、第 15 駆逐隊司令、そして横須賀鎮守府司令長官を経由して海軍大臣宛に状況を報告している。
当時、戦艦「長門」「陸奥」以下の第一艦隊は、遼東半島沖の裏長山列島付近にて訓練中であったが、午後3時頃に東京・横浜が全滅というショッキングな報告(船橋電信所からの一報)が入り、翌2日午後3時には第二艦隊と協議の上、連合艦隊は東京へ急行することに決した。3日には海軍省の震災救護委員会からの帰国命令にもとづき、艦隊は巡洋艦や駆逐艦などの身軽な艦艇から先行して順次出航し、「長門」「陸奥」「伊勢」「日向」もひとまず九州の志布志湾を目指した。そこで「長門」が他の3艦の食糧や医薬品を全て積み替えて、9月5日午後2時半には横須賀に入港した。その後、芝浦沖に停泊し援助物資の陸揚げを開始した。また第二艦隊の「金剛」以下の巡洋戦艦や予備艦の戦艦「山城」なども含めて、ほとんどの主力艦艇が救助活動に参加するために行動を開始していた。
この際に、東京へ急行する「長門」を、英国の巡洋艦「ダーバン」(もしくは「ホーキンス」or「プリマス」と諸説あり)が大隈海峡から追従していた。「長門」は全速力(26ノット近くだったとの記録もある)で救援に向かっていたが、この英国艦を視認しても速力を落とさなかったという。公称の23ノット以上の速力を出しているにもかかわらずだ。被災した帝都を救援する為には、軍機の露呈もやむなし、との判断であった。
「長門」座乗の竹下勇連合艦隊司令長官が「ナイト」の称号を有していることから「ダーバン」は礼砲を放ち、「長門」が「お先にどうぞ」と発信すると、「サンキュー、サー」と返信して追い越して行ったという。表向き「ダーバン」は、震災の救援活動での航行としていたが、その実は「長門」の速度性能などの監視任務も帯びていたといわれている。
震災5日目以降には海軍は総力を集結して救助・救難活動に当たったが、東京方面では救援物資(特に食糧)の陸揚げが主な任務であり、港務・荷揚げ作業、海上警備活動、避難民の輸送など、横浜方面では、更に陸上の警備任務、被災民への給食や医療の提供、瓦礫の撤去・道路の開通作業等と多岐にわたった。
さて、6日なると第二艦隊旗艦の「金剛」も品川沖に到着した。そこで現場の指揮を第二艦隊司令部に託し、中央省部との連絡を密にするために連合艦隊司令部は艦を降りて海軍省内に移動(9月21日には撤収)した。海軍省附近に集まってきた被災者約1,000名を海軍省内に収容(後に日比谷・青山地区の施設に移送)し、配給を実施した。またこのころ、品川沖は救援のための船舶で溢れており、「比叡」の短艇が曳船と衝突、46名の乗員が溺死するという惨事も起きている。
以降、救援活動は連日続いたが、9日には「陸奥」が米や麦といった補給物資を満載して呉から到着した。当時の呉鎮守府長官の鈴木貫太郎は、2日の午前中には海軍大臣の許可を得ずに独断で艦艇の派遣を決めており、物資倉庫を開放して救援物資の搭載を命じていた。
各部隊も大挙して救援活動に参加し、第3戦隊は横浜地区の糧食陸揚・救護・警備を担当し、第2水雷戦隊その他が房総半島、伊豆半島、伊豆諸島沿岸地の災害状況の調査並びに糧食輸送、救援任務を担任した。
また、「陸奥」は「伊勢」や「山城」他の艦艇とともに、避難民輸送に従事していた。これは発災3週目までに延べ30隻の艦艇で、東京港から静岡県の清水港まで約21,000名もの避難民を輸送したことが主である。変わったところでは、倒壊した東京地区の刑務所から、一部の受刑囚が巡洋艦「夕張」及び駆逐艦「葵」により厳重な監視のもと名古屋刑務所に移送されたことがあげられる。
10日過ぎ頃からは、救援活動を担任していた各艦艇は順次横須賀港に回航され、補給と乗組員の休養に努めた。また、横須賀鎮守府隷下の艦艇においては震災で近親者を亡くした乗組員の多数が継続して軍務に従事していたため、震災被害者には5日、震災地出身者に対しては3日以内の休暇が与えられた。
この頃には海外からの援助も本格化し、横浜港には米国の駆逐艦や商船が救援物資を運び込んだ。日本の商船は、3,000名もの中国人被災者を上海に送還した。海軍は18日には避難民の輸送を打ち切ったが、この時点で搬送した人員は34,431人に及んでいる。
18日現在、品川沖に停泊していた艦艇は、戦艦などの主力艦から特務艦や商船までも含めると80隻をゆうに超えていた。
尚、震災当時、横須賀の海軍工廠のドックでは、潜水艦10号と14号が建造中であったが地震で大破し、空母「天城」も大きな損傷を受けたため建造を断念(「赤城」に切替)し、その後解体された。港内にはかつての連合艦隊旗艦の「三笠」が錨泊していたが、艦底の一部が損傷して浸水し始めたため、港外の浅瀬へ曳航し沈礁(後に引揚げ)させた。
その後も救援活動は継続したが、やがて海軍の連合艦隊その他の部隊は10月6日になり撤収を完了した。このような大規模で長期間の活動は、平時としては海軍史上において最大規模のものであった。この期間に海軍は150隻(約3.7万人体制)を派遣し、これは実働可能な主力艦艇のほとんど全てであった。
関東大震災において海軍の実施した救援活動は、当時の報道内容や東京府の感謝状などから判断しても、また実際に救護された多くの被災者の声からも、非常に高く評価されていたといえる。
-終-
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